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新生のらくろ君Aの館

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ジンバブウェ時代その5


私がジンバブウェで仕事をした時の日記(5)です(最終)


相変わらず、沈静剤を飲みながら、仕事した。この頃は、引き渡しセレモニーの話が殆どだった。インビテーション、プログラム、新聞広告の件、費用の件等々。
YTo君の出番である。英語を良くする彼は、手際よくこなしていった。しかしスピーチで、ミニスター(大臣)が先か大使が先かなどは、相談をしながら決めていく必要があった。
それと私には、コンプリーションレポートが重くのし掛かっていた。

土曜日、セレモニーの打合せで、ムタレの地方事務所(PRE)に出かける。基本的には、オジ橋でセレモニーをするので、オジ橋を管轄するPREで取り仕切ることになる訳だ。TIk、YTo、チャワンダ、私とで乗り込んだ。
昨夜は疲れて眠れなかったので、睡眠薬を1錠追加で飲んだこともあって、ムタレへの中間地点であるハーフウエイで起きた以外は、ずっと寝ていた。プロビンシャルオフィス(PRE)の責任者ネマチェナとの摺り合わせは、巧く行った。次回9月27日の再ミーティングを約束し、オフィスを辞した。
段々に前に向かって進んでいる。私は、持病の黒い犬が来ないことを祈った。
既に兆候はある。何かが引き金で、落ち込まないとは言えない。とても怖かった。

水曜日もセレモニーの話一色。大使は、泊まりか否か。JICAの中村所長は、日帰りだという。またJICA事務所の開所式が延びるので、わざわざ日本からの要人は来ないとのこと。細かいことが煮詰まっていく。

マトーレの再就職先で、太陽コンサルの山田氏より打診があった。英文タイプが出来るのかなど。
同様に、JICAからも打診があったが、私は、とても最後まで怠惰なマトーレを勧める気にはなれなかった。
木曜日は、ロッキーを売却する件で、てんてこ舞いである。購入の時の証書を、鴻池と一緒に買ったが、それが見あたらないという。また税金も、使用目的がODA故に安かったので、持ち出す時が問題であるとか。高い税金を取られる位なら、政府に譲渡することも考えられるが、相手も金がないという。YTo君はタンザニアに持ち込めば簡単に売れるというが、持ち出し方が分からない。
いい加減にして欲しいと感じた。

遅々として進まぬ作業に私の気分も比例して落ち込んでいった。私は、何でも、きちん、きちんと進んでいかなければ気が済まない。ところが、人間の思惑で、なかなか決まらないことが多い今回のようなことは、私の一番不得意とするところだった。

日本人会のゴルフコンペにも出なくなってしまった。

落ち込みかけていたが、薬を飲むことで、やっと睡眠が取れるようになり久し振りに7:00までぐっすり寝た。
SYa氏が、新赴任先から電話をしてきて、セレモニーには、2週間ぐらい遊びに行きたいといっていた。また、ロッキーの導入時の経緯についても大体分かるようなことを言っていた。
要は、関税優遇措置で、導入したということであるが、書類をどこがもっているかが問題である。
私のあずかり知らぬ段階での問題だけに、どう処理して良いのか全く見当が付かなかった。
昼過ぎ、TIk氏のところで、公私に渡る話をした。仕事がメインであったが、何となく疎外感があったのが吹き切れて、有意義な話であった。

MTaさんからもファックスが届いており、いつも気を付けていてくれることに感謝した。
次の日も、比較的ゆっくり寝られた。昨日から、太陽電池に関する会議とやらで、大統領官邸の警官の動きがうるさくなっている。
日本からは、ジンバブウェから送った品物の関税についての結果がファックスで届いた。
あとは日本人会ゴルフコンペの次年度の商品などについて、あちこちに電話連絡をした。

翌日も気分は爽やかだった。久し振りに太陽はぎらぎらしていた。しかし湿度はないので、日陰では凌ぎやすかった。銀行へ2度行った。一度はいつも通りオフィスアカウントの引き出しである。
二度目は、MTa氏の銀行口座をクローズすることであった。

日本人会ゴルフコンペのカップを作り終えた。
取りきりなので、1996年度分は私が貰った。
またマトーレは、食品会社への再就職の面接を受けると行って、休暇を願い出てきた。

木曜日朝一番に、チャワンダが、テベレジに電話をする。
1.アズビルトドロウイング(完成図)は原紙が欲しい。
2.セレモニーの財源として、61,969Z$が欲しい。
上記2点を、TIk氏に言付けを依頼し、グツ方面の4橋に向かって出発した。チャワンダと同乗して現場に向かうのは久し振りだ。いつもチャワンダは、先行していくことが多い。
往復路で、よく話した。考えてみれば、仕事の報告と指示以外では、うち解けた話はしたことがない。
チャワンダは、11月になっても休暇を取ってでも、私のところに来てくれるという。私が日本に帰るまでは、サポートしてくれるという。

チャワンダは、結婚して、2nd streetの白い家の隣の茶色いアパートの3階41号室(端から2軒目)に住んでいるという。
その日は天候が余り良くなく、写真は、どれも失敗だったようだ。
英語の話が出て、MTa氏もムガベとの話は余り通じなかったとか、テベレジは、一回のセンテンスが長く分かりにくいとか。チャワンダは、良く理解しようと勤めてくれているが、それでも言っていることが分からぬ時がある、といっていた。

金曜日は、午前3:00にKTaさんのファックスで目が覚めた。全く傍若無人な、手前勝手な人である。MTaさんが言っていた評価が良くあたっていると苦笑いが出た。
そのままベッドでぐずぐずしたが5:30に再び目覚めた。そして7:10イライラしながらベッドから出て、仕事に取りかかった。何しろ通勤地獄はないが、職住近接であるため、頭の切り替えが必要である。

この日も、1.セレモニー、2.ロッキーの売却先、3.完成図の第2原紙の件、等について、遅々として進まぬ内容に苛立ちながら処理していった。

土曜日は、昨夜のウイスキーのお陰で、朝はゆっくり寝られた。午前中、街に出かけて、買い物をした。大したものはなく、何れにしても小物ばかりである。
帰って、ビールを飲み、昼寝をしたが、体がだるかった。夕方、TSu婦人から電話があり、魚をもらいに行った。ご主人と、モザンビークのマプトに行って手に入れたものらしい。マプトは、とても寒かったとのことであった。

日曜日は、全くすることが無く暇を持て余した。借りてきたビデオの土曜サスペンスと「ティファニーで朝食を」を見て楽しんだ。
これからもKTaさんが来るまでは、こんな日が続くだろうし、KTaさんが来れば忙殺されるであろう事を思いやった。

月曜日はTSu婦人とゴルフに行く。

昼は、セレモニーのための会議で、レストラン「ピノ」に集合した。ドネーション時の新聞広告を含めて、内容が段々と煮詰まっていった。
東アフリカ事務所の遠藤所長から、セレモニー参加予定を知らせてきた。11月16日ハラレ入国17日にムタレに入る。18日セレモニー参加後レオパードロックに投宿。19日ハラレ帰還と言うことだった。

火曜日、KTaさんから長電話が入る。こちらも気が揉めるが、担当責任者としては、日本でさぞかし気が揉めていることであろう。私は、KTaさんの気質上それがよく分かった。
私は私物を家に送ったために着払いで3万円を要したことを説明。領収書で、会社が払うことを了解して貰った。また、今後は、プロジェクト支払いとするようにとのことであった。
この時「アナカン」という言葉を初めて聞いた。この方が安いという。Unaccompanied baggageということらしく、昔の国鉄のチッキみたいなものであろうと了解した。
ロッキーの件では、来年4月から調査が始まる、都市開発プロジェクトの、マニヤメ水質汚濁で使って貰えるかどうかという話も出た。
何れにしても決定打はなく、持ち越しとなった。

最近先が少し見えてきたこともあって、身体は少し調子がよい。夕べは、たまった新聞5日分を読み、薬を飲んで寝た。
TIk氏が来訪。バランスシートを作成しているが、5000万円の赤字だという。何れにしても日本からの積算表をベースに、今月末か来月早々に仕上げるとのこと。
また懸案であった、ジンバブウェ政府からの感謝状については、名前を運輸大臣にするか、道路局長にするかで、出てくる時間が相当違うとの話であった。
あとは、YTo君、高原君が三々五々訪れて、それぞれの担当分について、私に相談を持ちかけた。

家には、ロシア大使館の連中が、次期借り主の候補として、下見にやってきた。

コンプリーションレポートの件は、ジンバブウェには出すが、日本には出さないことになった。
チャワンダは10月から本社に帰れと、社長のムガベが言うらしい。私は、全てが終わるまでということで、再びの話し合いをもった。要は、金をつり上げる魂胆らしい。
チャワンダには、欲しがっていたピックアップを9000Z$で売り渡した。
ジンバブウェの真面目な青年は、こんなポンコツでも随分うれしがった。

夕食は久し振りにTSu邸で、カラオケを楽しんだ。

金曜日、夕べ寝るのが遅く、薬も効かず、3:00まで起きていた。7:00に起きると遠藤所長から電話があり、感謝状は局長名でよいとのことだった。
またセレモニーの失敗例として、ルサカの起工式が流れて大使館の機嫌を損ねた件。タンザニアの竣工式が1ヶ月延期になった件などの話が私に参考のためといってしてくれた。

KTaさんからは、S事業部長の出席は流動的で、駄目ならYo前副社長を頼むとのこと。またJICAの理事の出席はない。さらに、Z$が余れば、KTaさんの航空機代もジンバブウェで購入することも考えるとのこと。

YTo君とムタレに行った。ネマチェナに会って小切手20000Z$を渡す。
往復ともハーフウェイで休息を取る。イギリス人は、巧く考えたものだ、150km程度で、疲れが来る。どの都市も約300km離れているので、その中間にハーフウェイがおかれている。なかなか頭脳的である。
帰ると、日本工営のKawさんから電話があったとか、急いで自宅に電話する(日本時間で0:30)
様々なアドバイスを貰った。中でも、褒められようと気を遣うな、とにかく生きて帰ることが先決だと言うことだった。帰りは最短でなく、米国周りでも良いとのことだったが、これは、果たせなかった。
KTaさんあたりがそう言ってくれると良いが、また何かと後でうるさく言われるのは辟易だから。

久し振りの土曜日、TSu夫妻とチャップマンに出かけた。108でTSuさんと同グロスだった。私のハンディの方が低いので、負けとなった。昼食にFish & Chips with tar tar sourceを食べた。他に食べるものといってはステーキのようなものばかりである。
外は雹が降り、雨が降る。セレモニーの件で議事録の訂正などあったが、平穏な1日であった。

日曜日は、鴻池の連中も態度が見え透いて、不機嫌であった。本性を見る感じである。
月曜日は、大使館で小路一等書記官にセレモニーでのスピーチ及び、打ち上げのパーティーのスピーチについて、大使に依頼して貰うべくお願いした。
対JICAやTYaさんなどとも話した。
今はセレモニーの件で頭が一杯である。
オフィスのクローズについても、そつなくやって行かねばならない。残るZ$の処理のことが気になるところである。

1月1日残りが少なくなった。庭師のパトリックと、女中のテンダイ。運転手のモーゼスに10/30で終了解雇する旨の手紙を渡した。
修理に出していた、マツダが帰ってきたが、ベアリングが前輪の両方いかれているので、取り替える必要があるという。とても信じられない。アフリカでは何が起こるか分からない。

TIk所長は3日と22日ヨハネに出張するという。丸投げ業者のM&Rへの払いと、所長会議があるという。

コンプリーションレポートも何となく出来上がり、後はKTaさんのサインを待つだけになった。
日はそれとなく過ぎていく。

マツダのベアリング修理で、3000Z$掛かるという。嫌になる。
YTo君は、セレモニーの準備にチャワンダを貸してくれと言う。二日前から会場に入り、準備するという。
鴻池では参加者がKur氏から、Hi専務に交代した由。

トニー・べーカーが、台所の調度品やカーペットの汚れ具合を検査に来る。
水道代、電気代について、予定の金額を納付すべく、水道局へ行く。

また現場では、オジ橋のドネーションの銘板が、何物かによって盗まれる事態も発生した。
全く、後少しになって、いろいろな問題が起こるものだと、考えさせられた。

土曜日は何となく過ぎた。日曜日は、TSuさん夫妻とセレモニーの下見をかねてムタレのレオパードロックに出かけた。ハーフウェイで、運転を交代し、ブンバ山へ入り、マニカ市(モザンビーク)の見える展望台から少し入ったところで、TSuさんの奥さんの具合が悪くなった。
平坦なところは、道路も直線が多く、山間にはいると、曲線が急に増え、車酔いをしたようだ。自分が運転する方がいいということで、運転を奥さんと代わる、その方が、酔わないとのことだった。

それから、ホテルにチェックイン後、昼食のスパゲッティーを食べる。ホテルのゴルフコースを4人で周り、長引いたために残り3ホールを残して止めた。
カート使用料とプレー料金を払って、二人分580$だった。上がり後、鴻池の3人と会い19:00過ぎ夕食を共にした。無理矢理鴻池のおごりとさせてしまった。その後は、カシノで、それぞれ、ルーレットや、スロットルに挑戦したが、結局皆負けてしまった。結局私も300Z$をすってしまった。
0:30やっと部屋に帰り寝た。

月曜日、8:00に朝食を採り、再びコースへ出た。
手違いで1時間遅れの10:00にラウンドを開始した。ボールは八方に飛び、前に行くのに時間が掛かった。レオパードロックのコースは、適当な山岳コースで、難しいコースではあったが、広いところは、フェアウエーは大海原のように広く、打ち降ろす爽快さは、日本では想像もつかない位だ。

全体をひときわ高くそびえる山を中心に配置されており、最後のホールは、池越えのショートホールであるが、アイアンでは乗せきれないほどの距離があった。
15:30終了した。この分だとラウンドは時間的に、セレモニーの当日は無理があるかも知れないと一寸心配になった。
YTo君は、当日の予約をしていた。
夕食を簡単に済ませ、16:40頃レオパードロックを出発帰路についた。
20:16家に到着した。
帰るとチャワンダからメモが置いてあった。完成図面のことなど、MOTEのテベレジとのやり取りが簡潔に書かれていた。

火曜日、雑用に追われる。今日は、壁の塗り直しと、絨毯の修繕に来る。
また、MTa氏が再び来ることを予定していた航空機チケットの払い戻しのため、DHLで送ったという。スイスエアの内部処理に2週間は掛かるだろうとのことだった。
やれやれ色んな問題が出てくる。
マトーレは、11月から太陽コンサルの山田さんに来て欲しいと言われているという。
JICAに行きたいのなら1ヶ月だけ太陽コンサルへいくのは迷惑だと叱った。

水曜日、TIk氏は、バランスシートの持ち出しは3000万円だと言ってきた。
今日は、引き渡し前の補修である絨毯のクリーニングと壁の塗り替えで、一日中仕事にならない。
YTo君がマツダを友人が買いたいと言っているとか。50万円でどうだろうかとのこと。
それにしても毎日、下らぬ事で、時間が過ぎていく。どこもそうであるが、国どうしということも問題だが、日本国内部でも、その思惑が違うと真っ直ぐ物事が進まない。やれやれである。

木曜日、明日またオジ橋に州の責任者のネマチェネを訪ねるので同行してくれとTIk所長から連絡があった。KTaさんは2日後の土曜日に来訪するという。
MTa氏の航空券代リファンドの受取人をTSu氏にお願いすることとして、そのレターを作成する。

昼食を、MOTEのクデンガ、マカドー、テベレジとTYa、TSu、TIk、私の7人でとった。なかなかセレモニーの準備も大変である。新聞記事の件、またスピーチの件など確認するも事務的には巧く行かない。

金曜日、7:30ムタレに向かって出発した。7:00との約束だったが、どうやらYTo君が遅れたらしい。ハーフウェイで給油、10:30にPREのオフィスに着いた。
20ヶ条に渡る詳細項目の詰めを行った。YTo君は、手慣れたものだった。
昼食はネマチェナと後一人が加わって、合計4人マニカホテルで共にした。

その後、セレモニーの現場であるオジ橋の視察に出かけた。見てくれとか、掃除などの点で、もう少し手を入れなければならないようだった。

仕事を終え、ハラレに着いたのは18:15過ぎであった。
留守宅では、スイスエアのリファンドはハラレで出来るということらしい。どうにも心配であるが、運を天に任せるような気持ちであった。
壁用ペンダントも修理が済み、電気代も払いが終わり、塗装や、カーペットの修理もデポジットの範囲で終わったとの話であった。

土曜日、午前中に雑用を済ませ、KTaさんを迎えに空港まで出かけた。KTaさんを乗せた飛行機は予定より1時間遅れの14:25やっとハラレに到着した。
事務所で荷物を解き、明日のゴルフ場(カントリー)の予約をして車を借りるといって、クレスタロッジまで帰っていった。クレスタロッジでは、毎日2時間カンボジアの案件を処理するということだった。
留守には、セレモニーのプログラムの出来上がったものが届いていた。

日曜日、7:00過ぎクレスタロッジにKTaさんをピックアップして、カントリークラブで2人でラウンドした。105であった。帰ってシャワーを浴び、TSu婦人とコンタクト、13:30からKTaさんはTSu婦人と共に、ハイランドテニスクラブに出て行った。
KTaさんもこちらに来たら元気いっぱいである。
夕食は、KTaさん、TSu婦人と共に、タージマハールで取った。
KTaさんをクレスタロッジに送り、TSu婦人を家まで送って帰り、23:00にやっと就寝する。

月曜日、新聞記事に大使館の許可を取っていないと、もめた。
またムゼンダ副大統領が来るかも知れないとの話があった。この副大統領は、昔、私が、グツ方面に仕事で出かける時に握手をしたことがある人物だ。何となく親近感がある。
夕食は、チャイナタウンで、鴻池のおごりで、KTaさん共々取った。

ゆうべのワインでぐっすり寝た。MOTEとのやり取りで、第一秘書官のマカドーが大臣への表敬はOKだという。局長のクデンガに9:00に会って、その後、9:30位でどうかとのことだった。
鴻池とは、瑕疵担保の件やセレモニーの前後予定表の件などを打ち合わせた。

水曜日、朝7:00から、鴻池と、日商岩井、日本工営の3者会談が行われた。新聞関係と、費用分担の件であった。
新聞の関係は、ヘラルド紙に対しては、その内容を干渉することは出来ないので、とにかく、記事を載せて貰うように働きかけることしかなかった。
また費用分担については鴻池:日商:工営=55:35:10ということになった。

この日は、工営のYo前副社長、河部氏、鴻池のHi専務もハラレ入りをした。

木曜日、所有の車にレンタカーを加えて、ミクルスホテルに、日本からの偉い人共を迎えに行く。そのままMOTEへ局長のクデンガに挨拶する。約束していたにも拘わらず、大臣は生憎出かけていて不在であった。
チルンド橋の件、ハラレ近郊4車線化の件、ザンビア、モザンビーク、ボツワナへの連絡道路の件
等約1時間に渡って話を交わした。
あとはJICAから、大使館へと回った。ミクルスをチェックアウト、私の事務所に立ち寄り、TSu邸で昼食をご馳走になって、ムタレに向かった。
カムリ、ベンツ、パジェロ、マツダに分乗して、私は、マツダにKTaさんと同乗した。
ホリデイイン・ムタレに17:00チェックイン19:00から食事となった。

1996年10月18日
セレモニー当日となった。5:00に目が覚め、6:45KTaさんと会う。25日にクレスタロッジに移ることを了解して貰い。そこから事務所に通う事とする。
送金の件、換金の件などについては、出たとこ勝負で行くことになった。
コンプリーションレポートも余り緻密過ぎると逆にクレームをつけることになるということであった。

7:45、ホリデイイン・ムタレを全員チェックアウト、8:00にオジ橋へ向かう。日本側ポーションから写真を撮り始めて、ムタレ側へ歩く。また橋に戻り、9:00から村人達の余興が始まった。

10:45分に、モヨ大臣と、栗原大使が相次いで到着した。テープカットをして、ドネーションの碑の幕が落とされた。
国歌の斉唱と、両ゲストのスピーチがあった。
後は式次第に則って、最後には、用意された2頭の牛をさばき、近所の住民が、相伴に預かる中、我々もほんの少し野外パーティーに同席した。
山羊の贈呈式や、近所の子供たちによる民族舞踏など、結構賑やかではあったが、私の気をひくものではなかった。

他の日本人と同様、私たちもセレモニー会場をそそくさと抜け出し、ブンバを周り、レオパードロック・ホテルにチェックインした。レオパードロックでは、日本人だけ21名で改めて祝賀、慰労会が行われ、

おそらくレオパードロックで最高の部屋での会食となった。前菜からメインディッシュまで、日本のそれとは比べものにならないが、いろいろ苦労をしてやっとたどり着いた安堵感と相まって、ひときわ美味であると感じた。宴はひとしきり続き、やがて終焉となった。

我々は、それぞれの部屋に帰り、シャワーを浴びて、三々五々カジノで遊んだ。

翌19日、朝3:00に目が覚めてしまった。大事なこと一つ終わったら次は、事務所の閉鎖をスムーズに行わなければならない。その事が気になって眠れなかったのだ。
6:00前に朝食を済ませる。7:00からゴルフのスタートを切った。TIk氏ははしゃいでいるようだったが、元々、ゴルフが得意でない私は気が重かった。仲間内でやるのは良いが、見ず知らずの人間が加わると、もう全くゴルフにはならない。せっかくの景色も十分に堪能する暇もなく、18ホールを終わってしまった。

ホールアップして準備された賞品にあたるはずもなく、12:30シャワーを浴びる暇もない位に、KTaさんにせかされるようにデブレ2橋へ向かうこととなった。
KTaさんも、生え抜きではないから、工営の偉い人と同席するのは息が詰まるようだった。
引き続いて、ペンベジ橋、ソテ橋、デブレ1橋と順に視察をした。
日没と共に帰還した。

日曜日は、ぐっすり寝た。6:30ミクルスホテルにYo顧問らをピックアップして、空港へ送り、ハラレ空港を飛び起たつのを見送った。
その後KTaさんと二人でチャップマンで改めてラウンドした。
セレモニーの様子は、テレビで放映されたようだ。

一区切りついた翌日からは残務処理である。
大使館や、JICA、関係者にこのプロジェクトの記念品(時計)を配って歩いた。
チルンド橋の件で、TYaさんを訪問しヒヤリングを行うのに付き合った。
夕食は、TYa夫妻と、KTaさん、我々夫妻とで、チャイナタウンに行った。工営として、久し振りに交際費を使った。

木曜日、早朝5:15、KTaさんは、チャワンダと、運転手モーゼスを伴って、チルンド橋へ出かけた。
私は、旅行社とのやり取りや、保険会社とのことで、忙殺された。

金曜日、TSuさんが来て、今後の打合せをした。明日はいよいよKTaさんは帰ることになる。
いると何かと気ぜわしい。善し悪しである。

KTaさんを送って、空港へ、14:00に出かけた。これで何回KTaさんを見送ったことになるだろう。KTaさんは、TSuさんと合わないようであった。
土、日は、何となく過ぎた。月曜日には、地元コンサルタントのムガベと、事務所閉鎖後のファックス使用などについて契約を行った。ミッシェル・コット旅行社では、私の帰りの航空券や、シンガポールのホテルの予約などを行った。今晩から、実質的にクレスタロッジに移ることになった。

ホテルからの事務所通いとなり、いよいよ帰国が目に見えてきた。
事務所の家具を日商岩井に移し始める。またマツダの名義も日商岩井に変更すべく手続きを取った。
電話もストップさせた。

木曜日、オフィスを閉鎖した。1年間暮らしたオフィスは、やはり名残惜しいものがあった。
こういう時に人間性が表れる。事務所の閉鎖作業で、マトーレは何もしない。この黒ん坊の大女だけは、始末が悪い。
自分の利益にならないことはやらないという徹底ぶりである。
黒人女のふてぶてしさを感じた。

クレスタロッジに移った後は、運転手のモーゼスにも暇を出した。後は、自分で運転するか、チャワンダに頼むしかない。
チャワンダと銀行へ行き、口座の閉鎖と、残金のUS$を引き出した。およそ7300US$が残っていた。
一旦ホテルに帰り、チャワンダに運転させて、宝石店を回った。ジンバブウェは、タンザナイトが有名で、それを買い求めるためだった。
クレスタロッジの夕食は旨くなかった。一口も食べられない。

土曜日は、TSuさんと、チャップマンでプレーをしたが相変わらずの成績だった。昼食は、チャイナタウンでご馳走になり、一旦ホテルに帰った。鴻池の事務所を訪れ、きつね寿司を作ってもらい持ち帰った。
無常の気持ちが蔓延する。やはり帰るとなると、落ち着かぬものだ。再び鴻池で、夕食を作りホテルへ持ち帰った。帰りのシンガポールでは飛行機が違うため、荷物がスルー出来ないとのことも聞かれ、不安をあおった。

シビルコンサルタントに対し、帰国後、チャワンダを連絡員として、キープしておきたい旨交渉し、そのお金を払った。ミッシェル・コットでは、マトーレの友人である、アンジーもやはり黒ん坊であり、肝心な時には来ていなかった。帰りの航空機代や、ホテルの予約、保険、荷物のExcess baggageの件などいろいろと詰めて、これも大変な労力が掛かった。

大使館に挨拶に行き、JICAにも挨拶した。TYa氏には、電話するも、不在だったが、二回目のコンタクトで、アポイントを取り、MOTEの事務所に挨拶に行った。帰国後のことや、英語での生活のことなどを、暫く話した後、明日夕食をチャイナタウンですることを約束して辞した。
クレスタロッジでは、会計の後始末のことばかりをしなければならなかった。
Tak君もそろそろ帰ると言うことで、その送別会に参加した。

残りのZ$をUS$に変えて貰うべく、TSuさんにお願いした。昨日約束の夕食のためにチャイナタウンに出かけた。TYa夫人は、熱があるということで、来なかったが、替わりにTIk、YToが加わった。
暫しTYa氏のゆっくりしたテンポに眠気を催した。

今日は、TSuさんに5回電話して通じず、イライラする日であった。

木曜日、KTaさんから、電話があり、車の件や、同じ事を、長時間に渡って、喋った。

金曜日、夜中2:00に目が覚め、それから睡眠薬で、7:00まで寝た。
本格的帰国のための整理をした。
・パソコンの売却領収書
・私のゴルフバッグの売却
・マツダのTSu邸持ち込み
・鴻池の報告書梱包
・Z$のUS$への変換など

TSu邸で歓送会をしてくれた。出席者は大使館の小路夫妻、JICAの中村夫妻、西松建設の竹下夫妻、TIk、YTo、それにTSu夫妻である。少し古くなった、カラオケセットを前に0:00過ぎまで、歌い歓談した。

昨日遅かったのと、安定剤のお陰で、8:00までぐっすりと寝ることが出来た。チャワンダは10:00に来ていて、ロビーで待機してくれた。TSuさんの奥さんがやっとつかまり、マツダを届けに行った。
帰り道、スーパーのナンドを回って焼き鳥を買い帰った。
クレスタロッジの宿泊料を支払って残金が433Z$になっていた。
明日のモーニングコールを5:30でセットし早めに床についた。

11月10日、帰国当日となった。5:00に目覚め、チャワンダ夫妻は6:00に来てくれた。ばたばたと支度をしてクレスタロッジをチェックアウトをした。
TIk、YToの二人は、運転手ロバートを伴って、ピックアップと、ロッキーで来てくれた。
6:30TSu夫妻も来てくれて、空港へと向かった。結構な荷物である。
TIk、YToの二人は、ルアー・ゴルフクラブに出かけるので、一足先に帰った。私は、チャワンダの親切と誠実さに対してお礼の気持ちで残った300Z$を渡した。

TSu夫妻には、長い間の交誼に感謝した。8:15ボーディングを開始した。
機に乗り込むと、8:42動きだし、8:48テイクオフした。私は、眼下に広がる大地に、再び来ることの無いであろう大地に別れを告げた。

ヨハネスブルグのトランジットのカウンターは結構親切であった。しかし手荷物は開けさせられた。
乗り込んだSQ405はモーリシャス経由であった。SQは美人が多い。モーリシャスに着陸して、しばらくの後、機は大きくシンガポールに向け本格的飛行のテイクオフをした。

11日月曜日朝、ほぼ予定通り8:00にシンガポールに着陸した。荷物は、すんなりと出てくる。
ただ、看板をもって迎えに来てくれているはずのホテルの人間がいない。
また、ヨハネスブルグの二の舞だ。
あちこちうろうろして聞き回る。カウンターでやっと通じたが、今度はホテルのバウチャーがないので駄目だという。
そんなことはホテルで話すと私も腹をくくり、ブルーバードホテル行きのマイクロバスに乗り込んだ。約35分かかってついたホテルのフロントの女性も愛想がない。
しかし、ブッキングしているのは確かだから、強引に投宿した。
空港で、取り敢えず、300US$をSNG$に両替した。

日本食レストランで、日本食らしきものを食べたが、高いばかりで全く美味しくなかった。
部屋でゆっくりしてから、14:00の市内観光ツアーに入り込んだ。
インド人街→アラビックモスク→海岸→中国人街→宝石店を訪れ、宝石店では、日本人をカモとしているのか、しきりに勧められるが、時間もなく素通りした。
帰って、夕食を、中華料理店で食べたが結構高かった。夕食後散歩して、オーチャード通りのショッピングモールを歩いた。
宝石店で、指輪を散々品定めして、気に入らず、ぷっと出てしまった。他のモールは所々開いているものの、殆どが閉まっていた。とぼとぼと歩いてホテルに帰った。
今更のように旅行社、ミッシェルコットの黒ん坊を恨めしく思った。

大仕事をやっと終わって帰る途中であるが、何かくつろげないものを感じた。

翌火曜日、朝は9:00まで寝た。疲れの極限かも知れない。トランクをクロークに預け、昼のオーチャード通りに出て行く。外は、むんむんと暑い。あちこちウインドウショッピングをして歩いた。店の中では、店員がまとわりつくのでうるさい。暑さのために、遠くまで行く気にはなれず、ホテルに引き上げた。15:00にホテルに着いたが、空港行きのバスは20:00まで出ないという。
待っていても退屈だし、空港の免税店での買い物を楽しみにしていたので、ホテルに交渉して17:00に空港に送ってもらうこととした。

大型のバスでも、荷物の積み込みは難しかったが、皆ポ-ターと運転手がやってくれた。バスは方々のホテルで集客し、ゆっくり走ったので、空港に着いたのは18:00だった。
アーリーチェックインが可能であった、荷物を金属探知器で調べただけで、簡単にチェックイン出来た。

ラウンジでスナックを食べ、ビールとジントニックを飲み、20:00頃から空港内売店(免税店)をさまよい始めた。
エアコンが効いている関係もあり快適だった。22:15にゲートインして中で待つこと30分10:50に搭乗する。
11:34シンガポールチャンギ空港をテイクオフし夜食の後少し寝ると、朝4:00頃から朝食となった。

1996年11月13日
少しの曇りの中、6:30頃成田空港に着陸した。
お定まりの、検疫カード、イミグレーション迄は順調、通関検査で荷物を1ヶ明けられた。
それでも何の問題もなく、外に出て、やっと日本に帰ることが出来た。
ほぼ1年間に渡るジンバブウェでの生活も終結した。

八幡宿からタクシーで家に帰った後風呂に入り、少しまどろむと疲れがどっと出た。

帰って食べた日本の天ぷらと寿司はとても美味しかった。

思えば、クレスタロッジから帰るまで、取り越し苦労をいっぱいした。

・飛行機が欠航にならぬか。皆送りに来てくれるだろうか。
・JNBでのトランジットは巧く行くか。
・SINの入国は大丈夫か。ホテルは迎えに来てくれているか。(これは駄目だった)
・道に迷わないか、ミッシェルコットはホテルの予約を完璧にしているか。(これも駄目)
・荷物の運搬は大丈夫か。
・チェックインを早くできるか。
・ちゃんと、SQ998に乗れ、予定通りに行くか。
それらのことが、多少の問題はあったものの、通過出来たことをホットした気持ちで迎えた。

ここまでで、ジンバブウェの日記を終わることになる。





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